普段から化粧が重い朝

始まりのスタートの狭間
出来事

空に夢を見た円谷英二の想いは空に舞う

1月25日、今日は偉大な人物がこの世を去って47年となった。

昨年7月10日ウルトラマンは生誕50周年を迎えた。

更に7月29日、12年ぶりとなる国内ゴジラ「シン・ゴジラ」が公開され未聞の大ヒットを遂げた。

「幼き心に秘めた夢」

この「ゴジラ」「ウルトラマン」を生み出したのは特撮の神と呼ばれた円谷英二であった。

円谷英二は1901年に福島県で生まれた。飛行機が大好きな少年で、学校が終わると、木材を掘り飛行機の模型を作り、それを手に木に登り空に思いを馳せる少年だった。

そんな彼は「飛行機のパイロットになりたい」という夢を持ち、日本飛行学校に入校した。

しかし、不慮の事故で教官がなくなり学校は閉鎖となってしまい、彼の夢も挫折する事になる。

「出会い」

おもちゃ会社に就職した彼は、抜きん出たデザイン力で次々とヒット商品を世に送り出していた。そんなある飲み会の席上。彼の運命を大きく変える出会いが起きる。

隣で酔っぱらいの喧嘩が発生し、円谷たちの会社も巻き込まれる。

その酔っぱらった人たちの職業は「写真活動家」要するに映画で働く人であった。

そこで、ある人物に知り合い、円谷英二は映画の世界に飛び込みカメラマンとして腕を磨いていく。

ある時、人生を大きく変える映画に出会う事になる。

1933年公開されたアメリカの「キングコング」であった。

当時日本の映画はチャンバラが主であった中で、空想的な怪物が街を暴れる姿を目にし、彼は興奮と衝撃を受けた。

「こんな映画を撮りたい!」との想いに駆られたのだ。

しかし、時代劇が主流の日本映画界で特撮をする機会はなかった。

彼はキングコングのフィルムを入手し、一人独学で特撮の研究を続け時を待った。

そんな彼に仕事が舞い込んできた。

1941年公開された「ハワイ・マレー沖海戦」である。

真珠湾攻撃を特撮で表現した彼の映像はGHQも本物だと錯覚した作品であった。

しかし、戦意高揚を目的とした作品を撮ったことに円谷は後悔の念を抱いたと共に、GHQによって公職追放されてしまうことになる。

その間も彼は特撮の研究を続ける傍ら、今では主流となった映画の予告編を制作していた。

不遇・逆境の時代であったことは言うまでもない。

「冬は必ず春となる」

昭和29年その時は訪れた。

制作の田中友幸がすごい勢いである企画書を円谷のもとに持ってきた。

企画の名は「Gプロジェクト」。

核実験で生き残りの恐竜が怪獣となり東京を破壊するという内容であった。

彼は、要約、自分の磨き抜いた特撮を主体とした映画に出会ったのだ。

キングコングのコマ撮では7年かかると言って着ぐるみとミニチュアという手法を思いついた

更に、怪獣のデザイン、名前を決めて行った。

名前については、ゴリラのような大男で「クジラ肉が好物」という東宝の社員がいた。

ゴリラとクジラこの陸、海の王者を重ね円谷英二はその怪獣を「ゴジラ」と命名したのである。

強硬スケジュールと試行錯誤を乗り切り、昭和29年11月3日公開された。

前評判では「ゲテモノ映画」などと批判を浴びたが961万人もの動員を記録し大ヒット。1956年にはアメリカで公開され大ヒット。スピルバーグ、ルーカスなどに影響を与えた。

その後、特撮や怪獣映画を撮り続けた円谷英二は、テレビに目をつけ1966年に「ウルトラQ」を制作。お茶の間で怪獣が見れる環境を作り上げた。

そして、その続編として制作したのが、永遠のヒーロー「ウルトラマン」であった。

「父子の関係」

数多くの弟子、人材を輩出した彼は、皆から「おやじさん」と呼ばれ親しまれた。円谷組はまさに「父子」「師弟」の集いであった。

「心は絵師のごとし」

彼は空への夢を忘れたことはなかった。

特撮で表現される彼の飛行機の演出は、今見ても凄まじい迫力を持つ。

そして彼は、その夢を映画で実現させようと「ニッポン・ヒコーキ野郎」を企画していた。

しかし、1970年1月25日に円谷英二は68歳でこの世を去った。

「源遠ければ流れ長し」

彼がこの世を去って約半世紀の時が流れた。

今回ゴジラはフルCGで制作されたが、特撮を後世に残そうと尽力してきた庵野秀明・樋口真嗣らは特撮の世界を見事に表現しきった。

円谷プロも永遠のヒーロー・ウルトラマンを作り続けている。

空に思いを託した、彼の想いは、時空を超え映画となって大きく羽ばたき続けている。

弟子たちの活躍と何より愛した子供たちの笑顔を、おやじさん・円谷英二は天から見守り続けているに違いない。